宇宙行きを断念、南極へ。神沼克伊89歳が観測70年を語る

投稿者 central

南極観測70周年を迎えた今年、日本の南極研究の歴史を語り継ぐ重要な証人がいる。国立極地研究所名誉教授の神沼克伊氏(89歳)だ。同氏は1966年の第8次南極観測隊への参加以来、のべ十数回にわたり南極大陸に渡り、地震学の第一人者として国際共同研究を牽引してきた。その功績は、南極の地名として「カミヌマ・クラッグ」と「カミヌマ・ブラフ」の二つにその名を残すほどだ。宇宙への憧れから南極へと向かった若き研究者は、どのようにして70年にわたる観測の道を歩み、何を見てきたのか。神奈川県平塚市の自宅にて、南極の氷を浮かべたリンゴジュースを手に、氏の言葉を詳報する。

宇宙行きを断念した少年が向かった先

「最初は天文学や気象学に興味を持っていました。地球の表面で起こる現象を研究するからです。では、地球の内部はどうなっているのか。それを知りたいと思ったのが地震研究のきっかけです。地球の内と外、すべてを知りたかったんです」と語る神沼氏。中学校の頃には「月に行きたい」と宇宙に夢を馳せていたという。ところが、東京・後楽園遊園地のアトラクション「ローター」に乗ったことで運命が変わった。高速で回転する円筒の中で床が抜けるあのアトラクションで激しい吐き気を覚え、「宇宙旅行は自分には無理だ」と悟った。

「それなら、地球上で誰も足を踏み入れていない場所はないかと考えました。当時の東アジアには、まだ誰も登頂していない5000〜6000メートル級の山がたくさんありました。そんなことを考えていた矢先に、南極行きの話が舞い込んできたんです。すぐに承諾しました」と振り返る。未踏の地への探求心が、その後の人生を決定づけた瞬間だった。

冷戦と地震計が導いた南極への道

1965年、東京大学地震研究所の研究者だった神沼氏に南極観測隊への参加要請が届いた。当時は米ソ冷戦の真只中。1965年頃からアメリカは、ソ連の地下核実験を探知するため、全球標準地震計網(WWSSN)を世界124か所に設置していた。日本の昭和基地も再開されることになり、長周期地震計の設置が急務だった。神沼氏の博士論文のテーマがまさに長周期地震計だったことから、白羽の矢が立った。

「正式な任務は、昭和基地での地震活動、海洋潮汐、地磁気、そしてオーロラの目視観測という、総合的な地球物理観測でした。地震以外はまったくの素人でしたから大変でしたが、そのおかげで多くを学べました」と語る。1973年に国立極地研究所が設立され、東京大学から所長に就任した永田武氏の招きで、神沼氏は同研究所に移籍。「日本の地震学は競争が激しいですが、南極の地震学なら研究者がほとんどいませんから、すぐに第一人者になれました」と笑顔を見せる。

「季節労働者」としての国際共同研究

1970年代に入ると、アメリカを中心に南極の地下資源への関心が高まった。1977年の会議に出席した神沼氏は、大手石油会社の代表が参加していたことに衝撃を受けたという。永田所長からは「昭和基地のあるエリアには石油や鉱物資源はないとされている。だからこそ、アメリカと協力して資源が豊富な地域で研究成果を出し、日本の存在感を示してほしい」と指示された。

以降、約10年間にわたり、神沼氏はアメリカ・ニュージーランドとの国際共同プロジェクトに参加。マクマード基地を拠点に「季節労働者」として毎年10月から2月までの夏期のみ南極に通い、最終的には昭和基地よりアメリカやニュージーランドの基地の方を多く訪れることになった。後半10年間は、アメリカやニュージーランドのチームとともにエレバス山の火山監視に従事。その研究から、エレバス山の噴火特性が北海道の有珠山に類似しているという結論を導き出した。

最大の功績:南極大陸に「構造地震」は存在する

研究業績の中で最も重要なものを問うと、神沼氏は即座に「南極大陸に構造地震が存在することを証明したことだ」と答えた。

「初めて南極に行った当時、アメリカの地震学の教科書には、『南極大陸では構造地震は発生せず、エレバス山付近で火山性地震が起こるのみ』と書かれていました。日本の地震学の教科書に至っては、南極の記述すらありませんでした。英国の研究者とも議論しましたが、当初は『あれは構造地震ではなく、氷の割れる音だ』と言われました。それが認められるまでに約30年かかりました。今では、南極大陸全体で低レベルの構造地震活動があることは、広く受け入れられています」と説明する。

南極観測70年が刻んだ日本の足跡

日本の南極観測は、1956年11月に南極観測船「宗谷」が東京・晴海埠頭を出港したことに始まる。神沼氏はこの黎明期について、「アサヒビール(当時)が約1億円を寄付するなど、政治家や財界人、マスメディアが強力にバックアップした。ドイツやイタリアといった旧枢軸国が国家レベルの南極観測を始めたのは1980年代で、日本はそれより約20年も早かった。当時のリーダーたちの先見の明には深く敬意を表します」と語る。

「当時の日本は輸入米を食べるような貧しい時代でしたが、人々は『科学のオリンピック』と称されたプロジェクトに国を挙げて熱狂しました。子どもを含む多くの人が寄付をしました。ただ、第1次隊は南極に関する知識が乏しく、冷凍食品を持ち込みながら『南極に冷凍庫は不要』と思い込んでいた。ところが、南極でも気温が0度以上に上がることがあり、肉がすべて傷んでしまったという笑い話もあります」と当時を振り返る。

昭和基地の三つの使命と二大発見

神沼氏は、昭和基地の役割を次の三つに整理する。

  • 地球規模の基準観測点:気象や地震のデータを世界のネットワークに提供する基盤
  • 南極固有現象の研究拠点:オーロラや古代の氷床コアの研究
  • 内陸調査の基地:隕石探索など、大陸内部への探査の足がかり

「三つすべてが重要ですが、一番目はともすれば軽視されがちです。観測に携わる研究者個人には直接的な利益がありませんから。しかし、世界の中での日本の文化的地位を考えれば、有人基地として維持していくべきです」と強調する。

そして、南極からもたらされた世界三大発見のうち、二つに日本が関与している事実を指摘する。一つ目は隕石の大量採取だ。日本は南極で1万7000個以上の隕石を収集。これには月や火星由来のものも含まれ、アメリカ(2万3000個以上)と並ぶ世界有数のコレクションを誇る。二つ目はオゾンホールの発見。昭和基地での定常的な大気観測が、オゾン層破壊の発見に貢献した。三つ目の「氷床下の湖」の発見には日本は関与していないが、神沼氏は「このうち二つに日本が貢献できたという事実を、もっと誇るべきだ」と訴える。

気候変動と地政学の脅威

気候変動研究における南極観測の重要性について、神沼氏は「昭和基地での70年にわたる記録では、地表の平均気温は比較的安定しています。冷たい空気が南極地域を緩衝しているためです。しかし、上部成層圏の温度は上昇しており、極地の氷床が溶け出したときの影響を探るには、継続的な観測が不可欠です」と警鐘を鳴らす。

また、南極条約によって平和利用と科学調査のための国際協力が維持されてきた南極だが、近年は地政学的な緊張も影を落とし始めている。1991年の議定書で商業資源採掘は50年間凍結されているが、中国が南極やグリーンランドを含む北極圏で急速にプレゼンスを拡大している現実がある。「南極は平和の楽園であり、国際協力のモデルです。外交官や科学者は、現状の枠組みを維持することが地球の平和モデルになり得ると訴え続けるべきです。そのためには、確かな科学的成果を生み出すことが何より重要です」と語気を強める。

「地球を守る」という使命

最後に、なぜ人類は南極研究を続けなければならないのか。神沼氏の答えは明快だった。「地球は私たちの故郷です。私たちは南極から経済的な富を求めているわけではない。人類全体の未来のために研究しているのです」。宇宙行きを断念し、未踏の地を求めて南極に魅了された89歳の科学者は、現在も秋に刊行予定の新著『昭和基地今昔物語:南極観測の七十年を辿る』の執筆に追われながら、南極研究の未来を見据えている。

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