現代アーティスト、トニー・アウスラー(Tony Oursler)が日本で開催した展覧会を機に、彼が長年にわたり追求してきた「テクノロジーと創造性の融合」についてのインタビューが実現した。アウスラーは、現在の西洋社会に蔓延するテクノロジーへの悲観的なムード、いわゆるラッダイト的な風潮に疑問を呈する。彼の世代は、ソニーの「ポータパック」のような新しい映像機材が登場するたびに興奮し、その可能性を探求してきた。ナムジュン・パイクの世代が映像のループに神秘性を見出したのに対し、アウスラーたちはそれをサイケデリックな表現として楽しみながらも、機材そのものに夢中になったという。
「本来、新しい技術に触れるべきなのはエンジニアだけではありません。むしろアーティストやクリエイターこそ、そうした素材を使うべきだと思っています」とアウスラーは語る。美学的な判断を科学者だけに委ねるのではなく、創造的な視点を持った人々が技術に積極的に介入することの重要性を強調する。この主張の背景には、テクノロジーがもたらす社会の変化を、芸術の領域から批判的に、かつ建設的に捉えようとする彼の一貫した姿勢がある。
データの集合体としての「新しい肖像画」
展覧会に出品された作品の一つに、顔認識システムを用いたものがある。アウスラーは、顔認識アルゴリズムが人間の顔全体を見ているわけではなく、ごく限られた特徴点のみを抽出して個人識別を行っている仕組みに着目した。「もしかすると、これは新しい肖像画なのではないか」という発想がそこから生まれた。
従来の肖像画は、光が顔に当たり、そこに表れる感情や人格を描こうとしてきた。しかし、現代における肖像画は様変わりしている。検索履歴、購買履歴、移動履歴、SNS上の人間関係——こうした膨大なデータの集合こそが、その人の「肖像」になりつつある。これはジョージ・オーウェルの描いたディストピア的世界のようでもあるが、もはや未来の話ではなく、現実に進行している現象だ。
アウスラーは、そのデータを企業だけが独占的に利用している現状を「とても惜しい」と表現する。「もしアーティストがその素材にアクセスできたらどうでしょうか。広告のためではなく、人間とは何かを考えるために、そのデータを使えたら。わたしたちは、人間という存在について、もっと多くのことを学べるかもしれない」。彼は、この膨大なデータセットを「巨大なアリの巣を上から眺めるように、人間社会そのものを理解する新しい道具」として位置づけている。
「顔」は人間そのもの——アウスラーの美学
アウスラーの作品には、一貫して「顔」が登場する。インタビューにおいて彼は、その理由を明確に語った。「顔とは、人間そのものです。わたしたちは誰かと話すとき、実際には周囲の景色も、身体も視界に入っています。でも意識は、ほとんど相手の顔に集中しています。そういうふうに進化してきたんじゃないでしょうか」。特に初期の作品では、身体全体を制作する必要はないと考えていたという。「顔だけあれば、人は残りの身体を勝手に想像してくれる」のだ。
この「顔」へのこだわりは、先述のデータによる肖像画の概念とも深く結びついている。物理的な顔だけでなく、データ化された個人の断片——デジタル上の「顔」——を作品として再構成するアウスラーの手法は、現代におけるアイデンティティの在り方を鋭く問いかけている。
テクノロジー・アートの未来とアーティストの役割
アウスラーの問題提起は、技術とアートの関係性を再考する上で示唆に富む。彼は、テクノロジーを単なる道具としてではなく、社会や人間の本質を探求するための「素材」として捉える。そして、その素材を最も有効に活用できるのは、技術的な専門知識を持つエンジニアだけではなく、社会や人間の営みに対して深い洞察を持つアーティストやクリエイターであると主張する。
現在、顔認識技術やデータ収集の倫理的な問題が頻繁に議論される中で、アウスラーのように「使い手」としての視点から技術に介入し、その可能性と危険性を作品として可視化する試みは、学術的な議論や企業のポリシーとは異なる、貴重な批評性を社会に提供している。テクノロジーがますます複雑化し、そのブラックボックス化が進む現代だからこそ、アーティストによる「技術への介入」は、私たちが未来を考える上で欠かせない視点となるだろう。アウスラーは問いかけている。そのデータの先に、私たち人間は何を見るのか、と。