中国のSNS上で、北京大学aの経済学教授が「柔軟な雇用は福祉である」と発言したことに激しい批判が殺到している。「ギグワーク(ギグエコノミー)」を社会保障の一形態として肯定的に捉えたこの発言に対し、多くのネットユーザーは「労働者の不安定さを無視している」と反発。瞬時にして「フレキシブル雇用」という言葉が中国の検索トレンドを席巻する事態となった。
発言を行ったのは、北京大学国家発展研究院の副院長を務める経済学者、張丹丹(Zhang Dandan)教授だ。中国の人気経済討論番組「Let’s Talk」に出演した張教授は、ギグワーカー(プラットフォーム労働者)向けの社会保護制度について議論する中で、「労働経済学の観点から見れば、柔軟性そのものが一つの福祉の形態である」と主張。この発言が記録され、動画が拡散されるや否や、中国全土のネットユーザーの怒りを買うこととなった。
中国ネットユーザーが捉えた「柔軟性の裏側」
張教授の発言は、短期的なアルバイトや単発仕事を指す「ギグワーク」が、社会セーフティネットとして機能し得るという理論的な枠組みに基づいている。しかし、多くの中国人労働者にとって、この「柔軟性」は社会保障の欠如や収入の不安定さと直結する現実を意味する。
中国では現在、配達プラットフォーム「美団(Meituan)」や「餓了麼(Ele.me)」の配達員、タクシー配車アプリ「滴滴出行(DiDi Chuxing)」のドライバーなど、ギグワークに従事する労働者が数千万人規模に上る。これらの労働者は多くの場合、正規雇用者に比べて社会保険や医療保険、年金などの適用が限定的であり、労働災害に対する保護も脆弱であるのが実情だ。
SNS上では「教授は自分がギグワーカーになったことがあるのか」「柔軟性という言葉で搾取を美化するな」「社会保障がないものを福祉と呼ぶな」といった批判が相次ぎ、瞬く間に数万件のコメントが寄せられた。中国のネット世論は、雇用の安定を求める声と、社会保障制度の拡充を求める声で一致している。
「ギグワークとは何か」──なぜ炎上したのか
ギグワークとは、企業と労働者が短期的またはプロジェクト単位で契約を結ぶ働き方を指す。日本語では「単発仕事」「非正規雇用」と訳されることが多い。ITプラットフォームの普及により、中国ではこの働き方が急速に拡大。一方で、収入が不安定であること、福利厚生が乏しいこと、長期的なキャリア形成が難しいことなどが社会問題として指摘されてきた。
今回の炎上の本質は、張教授が「柔軟性」を肯定的に評価したのに対し、多くの労働者がその「柔軟性」の裏にある不安定さに耐えているという現実認識の乖離にある。経済理論上の議論と、現場の労働実感との間に大きな溝があることを、この一件は如実に示している。
中国の雇用不安と社会保障の課題
中国政府は近年、プラットフォーム経済の発展を推進する一方で、ギグワーカーの権利保護にも政策的に取り組んできた。2021年には、プラットフォーム労働者の労働関係の明確化や社会保障の適用範囲拡大を目指すガイドラインを発表。しかし、実効性には依然として課題が残る。
中国国家統計局のデータによれば、2024年の都市部調査失業率は平均で約5%台で推移しているものの、若年層(16~24歳)の失業率は高止まりしている。雇用環境の不透明感が強まる中で、正規雇用を希望しながらもギグワークに従事せざるを得ない「やむを得ない柔軟性」が広がっている。こうした背景があるからこそ、教授の「柔軟性は福祉」という言葉は、多くの人にとって逆説的にしか響かなかったのである。
「柔軟性」と「安定性」の両立は可能か
張教授の発言は、学術的な文脈で行われたものだが、公共の議論の場で発言した以上、その影響力に自覚的であるべきだったとの指摘もある。とりわけ中国では、大学教授の社会的発言が大きな波紋を呼ぶ事例が後を絶たない。2019年には、別の経済学者が「高齢者は社会の負担」と発言して非難を浴びたケースも記憶に新しい。
ギグワークをめぐる議論は、日本にも通じる部分がある。日本でもフリーランスや業務委託で働く人が増加しており、「柔軟な働き方」が叫ばれる一方で、社会保障の適用外となるケースが問題視されている。日本政府は2024年、フリーランス・ギグワーカー向けの新たな保護法を施行したが、中国でも同様の制度的対応が急務であるとの認識が広がっている。
今回の一件は、「柔軟性」という言葉の使い方一つで、社会の分断が可視化されることを示した好例と言える。中国のネットユーザーに突きつけられたのは、経済理論のレトリックと、数千万人の労働者の生活実態がどれだけ乖離しているかという厳しい現実である。今後の中国では、単なる雇用の柔軟性の称賛ではなく、セーフティネットを伴った真の意味での働き方改革が求められている。