宮津湾の海底湧水、料理と生態系をつなぐ

京都・宮津湾で漁師が発見した海底湧水が、東京の料理人と出会い、陸と海の見えない循環を可視化する。

投稿者 central
宮津湾の海底湧水が漁業と食文化を結びつける新たな価値を生み出している。
ハイライト
  • 漁師は季節外れの低水温域で特定の魚種が集まる現象から海底湧水の存在に気づいた。
  • 東京の日本料理店がこの湧水を料理に取り入れ、陸と海のつながりを表現している。
  • 海底湧水は栄養塩を供給し、生態系の豊かさを支える重要な環境指標でもある。

陸にしみ込んだ雨水や雪解け水が、長い年月をかけて地中を旅し、海底から静かに湧き出す──「海底湧水」と呼ばれるこの現象は、これまで海洋学や地下水学の分野で断片的に語られてきたに過ぎなかった。ところが今、京都・宮津湾を舞台に、この目に見えない水脈を追いかける漁師と、その水を料理に取り入れた東京の日本料理店の料理人が現れた。ふたつの営みは、まったく異なる領域にありながら、〈汀〉(みぎわ)という境界領域をめぐる深い問いを投げかけている。陸と海のあいだ、見えるものと見えないもののあいだを、水がどのようにつないでいるのか。本稿ではその実践の全貌を追う。

海底湧水とは何か──知られざる地下水の海への旅

海底湧水とは、その名のとおり、海底の裂け目や砂層の隙間から地下水が直接海へと流れ出す現象を指す。陸上で地中に浸透した雨水は、帯水層と呼ばれる地層の中をゆっくりと移動し、ときには数十年から数百年の時間をかけて海へと達する。その出口が、海底にあるわけだ。

この現象自体は世界中の沿岸域で確認されているが、その流量や水質、生態系に与える影響については、いまだに解明されていない部分が多い。研究者の間では「沿岸域の地下水は、河川を通じた流入に匹敵するほどの栄養塩を供給している」という指摘もある。しかし、目に見えないがゆえに、漁業や食文化の現場で意識されることはほとんどなかった。

そんななか、宮津湾で海底湧水に着目した人物がいる。地元で長年漁業に携わる漁師である。彼は、ある海域でだけ水温が季節外れに低く、特定の魚種が集まることに気づいた。その原因を探るうちに、海底から湧き出る冷たい地下水の存在に突き当たったという。

宮津湾の漁師が見つけた“冷たい水”の正体

京都府北部に位置する宮津湾は、日本海に面したリアス式海岸の入り江であり、複雑な海底地形と豊かな生態系を有する。古くからアジやサワラ、イカなどの漁が盛んな海域だが、この漁師は長年の経験から、「ここだけ魚の付き方が違う」というポイントをいくつか把握していた。

ある夏の日、彼はそのポイントで水温を計測し、驚くべき数値を目にする。周囲の海面温度が25度を超えるなか、その場所だけ17度という低さを示していたのである。しかも、塩分濃度が通常より明らかに低い。これは、真水に近い水が海底から湧き出していることを示唆していた。

「最初は機器の故障かと思った。でも何度測っても同じ結果だった」。そう振り返る漁師は、その後、地元の研究者と協力して海底湧水の分布調査を始める。宮津湾の海底には複数の湧水ポイントが存在し、それぞれ水温や湧出量が異なることが明らかになった。これらの湧水は、夏場には冷たく、冬場には相対的に温かく感じられるため、周辺の海水温の微細な勾配を生み出し、プランクトンの分布や魚の回遊経路に影響を与えていると考えられる。

湧水が育む豊饒の海──生態系の新たな理解

海底湧水がもたらすものは、単なる水温の変化だけではない。地下水には、陸域の土壌や岩石から溶け出したケイ素や鉄、リンなどのミネラル成分が含まれている。これらの栄養塩は、植物プランクトンの成長を促進し、その植物プランクトンを餌とする動物プランクトン、さらには小魚、大型魚へとつながる食物連鎖の基盤を支えている。

宮津湾の湧水ポイントでは、周辺海域と比較して植物プランクトンの現存量が有意に高いというデータが得られている。つまり、海底湧水は海の肥沃度を局所的に高める「天然の栄養供給装置」として機能しているのだ。漁師が長年の経験で「魚の付きが良い」と感じていた場所は、まさにこの湧水が生態系を豊かにしていた地点だったのである。

この発見は、これまでの沿岸漁業の見方を更新する可能性を秘めている。漁場の価値は、表層の海流や水温だけでなく、海底からの地下水供給という「下からの視点」で捉え直す必要があることを示しているからだ。

漁師は現在、湧水ポイントの詳細なマップを作成し、それを漁場選定の指標として活用している。同時に、湧水の水量や水質が季節や降雨量によってどう変化するかを記録し、持続可能な漁業のための基礎データを積み上げている。

東京の日本料理店が実践する“湧水を使う”ということ

この宮津湾の海底湧水に着目したのは、漁師だけではない。東京にある日本料理店の料理人が、この湧水を料理に使うという前例のない試みを始めている。

その料理人は、かねてから「水が料理の味を決める」という信念を持っていた。仕込みに使う水、だしを引く水、〆めるための水──日本料理において水は、あらゆる工程に深く関わっている。しかし、これまで料理人が向き合ってきたのは、主に陸上の井戸水や水道水、あるいは銘水として知られる湧き水だった。海底から直接湧き出す水を料理に使う発想は、ほとんどなかったと言ってよい。

転機は、宮津湾の漁師との出会いである。漁師から海底湧水の話を聞き、その水を実際に手にしたとき、料理人は「この水には海と陸の両方の記憶が詰まっている」と感じたという。陸の土壌を通り、岩石のミネラルを溶かし込み、海底で海と出会う直前の水。それは、淡水と海水のあいだ、見るものと見えないもののあいだを漂う、極めて境界的な存在だった。

料理人はこの湧水を、どのように料理に落とし込んだのか。その一例が、湧水で引いただしを使った椀物である。通常の軟水や硬水とは異なり、海底湧水はシリカやカルシウムを適度に含みながらも、塩分はほとんど含まれていない。この特性が、だしの旨味成分であるイノシン酸やグルタミン酸の抽出を穏やかにし、雑味のない澄んだ味わいを生み出すという。

また、この湧水で米を炊くと、一粒一粒がふっくらと立ち、甘みが際立つ。料理人は「水が持つミネラルのバランスが、米のでんぷんの糊化に理想的な状態をもたらしている」と分析する。湧水の硬度が中程度であることが、米の炊き上がりに最適な条件を作り出しているのだ。

さらに、料理人はこの湧水を、魚の〆めにも使用する。締めるという行為は、魚の身を引き締めると同時に、余分な血や臭みを抜く効果がある。海底湧水で締めることにより、魚本来の旨味を損なわずに、クリアな口当たりを実現できるという。特に、宮津湾で獲れた魚を同じ湾の湧水で締めるという「循環」は、料理人にとって大きなテーマとなっている。

〈汀〉のあり方を問い直す──陸と海をつなぐ水の回路

漁師と料理人、ふたつの実践が示しているのは、「汀(みぎわ)」という境界領域の新しい捉え方である。汀とは通常、波打ち際、すなわち陸と海が接する水平方向のラインを指す。だが、海底湧水という視点を取り入れると、汀はむしろ垂直方向にも広がっているように見えてくる。

陸に降った雨は、地中深くへと浸透し、水平にも垂直にも移動しながら、最終的に海底という見えない場所で海と出会う。その水の旅路は、陸と海を単なる隣接する空間ではなく、地下水脈という回路で結ばれた一続きのシステムとして捉え直すことを私たちに促す。

漁師は、海の恵みを「湧水が来ているから魚が来る」という因果で理解し、漁場を選択する。料理人は、その水が運んできた陸の記憶を味覚として受け取り、料理に変換する。どちらも、見えない水の流れを感知し、それと共に生きる営みである。

日本料理の世界では、古来より「水を選ぶ」ことが重視されてきた。しかし、その選択肢は河川の水や井戸水、湧き水に限られていた。海底湧水という新たな選択肢が加わったことで、料理の表現の幅は確実に広がりつつある。一方で、漁業においても、海底湧水のマッピングは、気候変動による海水温の上昇や海洋環境の変化に対する適応策としての可能性を秘めている。

海底湧水が開く、これからの食と環境の可能性

海底湧水の研究は、まだ始まったばかりである。宮津湾の事例は、その先駆けとして注目に値するが、日本全国の沿岸域には同様の湧水が存在する可能性がある。例えば、能登半島や三陸海岸、九州のリアス式海岸など、複雑な地質構造を持つ地域では、同様の現象が確認されるケースが増えている。

さらに、海底湧水は単なる資源としてだけでなく、環境指標としての価値も持つ。湧水の水質や流量の変化をモニタリングすることで、陸域の地下水環境の健全性を評価することができるからだ。つまり、海の豊かさを守ることは、同時に陸の水循環を守ることでもあるという、循環的な視点が求められている。

漁師と料理人という、一見すると遠い存在であるふたりが、海底湧水という共通の主題のもとで交差したことは、偶然ではない。彼らはそれぞれの立場から、見えないものを感じ取り、それを可視化し、価値へと転換している。漁師は魚の到来を通じて、料理人は客の表情を通じて、その価値を確かめている。

〈汀〉は、もはや単なる地理的な用語ではない。陸と海、見えるものと見えないもの、伝統と革新のあいだに立ち、それらを結ぶ回路としての「境界」を意味する言葉へと変わりつつある。宮津湾の海底湧水は、その新しい〈汀〉のあり方を私たちに示している。

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