MIT(マサチューセッツ工科大学)発の臨床データ共有プラットフォーム「PhysioNet」が、創設から四半世紀を経て、世界の医療研究を支えるインフラとして不動の地位を確立している。1975年に不整脈研究のための心電図データ収集から始まったこの取り組みは、現在では年間1万5000報以上の学術論文で引用されるまでに成長。Nature Healthに掲載された最新の分析論文でもその影響力が改めて検証され、医療AI研究の基盤として不可欠な存在であることが示された。
50年の歩み——磁気テープから世界標準へ
PhysioNetの起源は、今から約50年前の1975年に遡る。当時MITとボストンのベス・イスラエル病院で不整脈研究に従事していた研究者たちは、心電図(ECG)の記録を収集・デジタル化し、自ら研究に活用するだけでなく、広く研究コミュニティに公開するという構想を抱いた。クラウドによるデータ共有が存在しなかった時代、医療研究データは各機関に分断され、比較検証すら困難だった。この状況を打開するために、彼らは独自のコンピュータを製作し、1本1本テープを複製し、10万件以上のアノテーションを手作業で付与。1980年夏、ようやく完成したテープ群は、当初は十数の研究グループにしか届かないと見込まれていたが、予想を超える関心を集め、その後10年で約100本が世界中の研究者に郵送された。
1999年、Harvard-MITのHealth Sciences and Technologyプログラムの下で正式に「PhysioNet」が設立される。複雑な生理学的信号を専門に扱う臨床データリポジトリとして、そのデータ共有の思想は「革命的」と評されるものだった。MIT Institute for Medical Engineering and Scienceの准ディレクターであり、Nature Health論文の上席著者であるThomas Heldt教授は、「PhysioNetの設立は非常に先見の明があった」と振り返る。
磁気テープはやがてCD-ROMへ、さらにインターネット上のFTPサーバーへと進化。現在、PhysioNetは数百ものデータベースをホストし、世界で最も包括的な生物医学・臨床データリポジトリの一つとなっている。昨年だけでも1万5000以上の科学出版物がPhysioNetを引用し、180カ国以上のユーザーが登録。研究者、医療機器メーカー、臨床判断を下す専門家らに広く利用されている。
「研究の摩擦」を取り除く仕組み
PhysioNetの真の価値は、単にデータを蓄積する場を提供したことではない。研究のハードルを劇的に下げた点にある。カリフォルニア大学バークレー校准教授で公衆衛生・データ科学を専門とするZiad Obermeyer氏は、次のように指摘する。「研究におけるボトルネックは、アイデアや才能ではなく、摩擦(フリクション)です。データへのアクセスが遅く、高コストで困難な場合、最初に消えるのはハイリスクなアイデア——うまくいけば変革をもたらすが、失敗する確率が高いもの——です。PhysioNetは、野心的なアイデアを試すための固定費を下げ、科学の可能性そのものを変えました」
この哲学は、ロンドンの病院で博士課程に取り組んでいたTom Pollard氏のキャリアにも大きな影響を与えた。彼は当時、重症患者の研究に必要なデータを病院システムから得ることに苦労していた。病院の情報システムは患者ケアと管理を目的に構築されており、研究利用を前提としたキュレーションは行われていなかったからだ。インターネットで偶然見つけたのが、PhysioNetがホストする集中治療データベース「MIMIC(Medical Information Mart for Intensive Care)」だった。その可能性を見込んだ臨床指導教官のKevin Fong氏がボストン訪問を手配し、PhysioNetの共同創設者であるRoger Mark教授とのコラボレーションが実現。Pollard氏は博士号取得後、MITに移り、MIMICの次世代版構築に携わることになる。
AIG押し上げた医療データの民主化
PhysioNetの最大の転機は、2010年代以降の人工知能(AI)ブームにある。もともとは心臓血管のECGデータが中心だったリポジトリは、現在では電子健康記録(EHR)、画像データ、ソフトウェア、そしてAIモデルが主力となっている。「コミュニティが大きくシフトした」とHeldt教授は説明する。信号処理を必要とする研究者だけでなく、大手テクノロジー企業のスタッフ、教育者、医療AIや機械学習の研究者が新たな主要ユーザー層として加わったのだ。現在、後者のグループがPhysioNetのユーザーコミュニティを「支配している」という。
Google DeepMindの研究者Vivek Natarajan氏は、「PhysioNetとMIMICは、医療AI研究の基準を設定した。そして今もなお、その基準であり続けている」と断言する。彼はPhysioNetのデータセットが医療AI研究に触媒的な役割を果たし、過去10年の進歩を支えてきたと評価。自らも同プラットフォームにデータを提供し、自己持続的なエコシステムの一部となっている。
AI時代における新たな課題と展望
PhysioNetの成功は、学術界のインセンティブ設計にも一石を投じている。従来、論文発表や独占的な分析に重きが置かれ、データを他者が使いやすい形で準備する「目立たない仕事」には評価が与えられにくかった。PhysioNetの創設者たちはこのモデルに異を唱え、研究リソースの共有が発見を加速し、最終的に人類の健康を向上させるという信念を貫いた。
現在の課題は、データ注釈(アノテーション)のさらなる充実だ。Heldt氏とPollard氏は、ユーザー自身が専門知識を活かしてデータに注釈を付けられる新システムのパイロット版を準備中。また、年次カンファレンスの開催を通じて、コミュニティのさらなる拡大を計画している。
「現代の研究には、統計学者、コンピュータ科学者、臨床医、薬剤師、看護師——すべての分野の知識を結集することが求められています」とPollard氏は語る。「コミュニティは拡大し、AIの進歩は研究者が取り組める問いの範囲と、可能だと考えることの限界を大きく広げました」PhysioNetは、50年前の磁気テープが築いた共有の精神を、AI時代の最先端でさらに進化させようとしている。