中国の肥満治療薬市場で、ノボ ノルディスクa、イーライリリー、ファイザー、そして地元バイオ医薬品企業のInnovent Biologicsが熾烈なシェア争いを繰り広げている。同国では処方薬の直接広告が法律で制限されているため、各社は地下鉄駅構内やエクササイズスタジオ、さらにはサッカースタジアムに至るまで、肥満そのものに対する認知度を高める「ステルスマーケティング」とも呼べる戦略を展開している。世界第2位の医薬品市場である中国で、減量市場の主導権を握ろうとする各社の水面下の競争が、新たな様相を見せ始めている。
中国国家衛生健康委員会(NHC)の予測によれば、同国の過体重または肥満の人口比率は2030年までに65%を超える可能性があるとされる。この巨大な市場の拡大を見据え、各国の製薬大手は自社のGLP-1受容体作動薬による肥満治療注射剤の普及に本腰を入れている。特に注目されるのは、これらの医薬品が週1回の投与で効果を発揮する点であり、糖尿病患者のみならず、美容や健康維持を目的とする一般層の需要も取り込もうとしている。
GLP-1注射剤を巡る中国市場の競争構図
現在、中国で競合する主要なGLP-1製剤としては、ノボ ノルディスクの「Wegovy」(日本では肥満症治療薬として「ウゴービ」の名称で販売)、イーライリリーの「Zepbound」、そして中国国内で承認を目指すInnovent Biologicsの開発品などがある。特にイーライリリーは強力な攻勢をかけており、投資銀行Jefferiesの調査によると、2024年第2四半期において、中国の大手ECプラットフォームであるアリババグループの「天猫(Tmall)」と京東商城(JD.com)における週1回型GLP-1注射剤の販売で首位に立ったとされる。
この背景には、中国における医薬品販売チャネルの特異性がある。処方薬のプロモーションに関する規制が厳格な中国では、製薬会社が直接消費者に向けて製品名を出した広告を行うことができない。そのため、疾病そのものへの認知を高める間接的なマーケティング手法が極めて重要となっている。地下鉄駅構内で展開される「肥満は病気です。正しい知識を持ちましょう」といった啓発ポスターや、ジムで実施される体重管理に関する無料セミナーなどがその代表例だ。
なぜ「ステルス広告」が有効なのか
日本のようにテレビCMやWeb広告で「こんな薬があります」と製品名を直接宣伝できない環境下で、製薬各社は他の手法を模索せざるを得ない。その答えの一つが、肥満を医学的に語る文脈づくりである。中国社会では依然として「肥満は自己管理の問題」という偏見が根強い一方、医学的に「肥満症」として治療対象であるという認識が徐々に広がりつつある。製薬各社はこの流れを加速させるため、疾病教育に重点を置いたマーケティングにリソースを集中させている。
具体的には、公共の交通機関やフィットネス施設での「健康増進キャンペーン」がその最前線にある。例えば、上海の地下鉄駅では、BMI値と健康リスクの関係を図解したポスターが掲示され、来場者に「適正体重の維持」を促す。企業名や特定の製品名は一切表示されないが、興味を持った消費者が自ら情報を検索するよう誘導する設計になっている。いわゆる「プッシュ型」から「プル型」へのマーケティングシフトであり、この地下鉄広告をきっかけに、消費者は「GLP-1」という治療法や「Zepbound」といった具体的な製品名にたどり着く可能性が高まる。
肥満治療市場が変える中国の医療と消費
この動きがもたらす影響は計り知れない。従来、中国の減量市場はサプリメントやダイエット食品が主流を占めてきたが、GLP-1製剤のような高いエビデンスを持つ医薬品の登場により、市場構造そのものが変容しつつある。Jefferiesのデータが示すECプラットフォームでの販売好調は、消費者が医薬品をオンラインで購入することへの抵抗感が薄れ、かつ肥満治療に対して「医療行為」として価値を見出し始めている証左と言える。
さらに、これらの製品は高額であるため、売上が拡大すればするほど、中国の医療保険制度や患者の自己負担額に与える影響も大きくなる。各社は価格競争だけでなく、アクセシビリティの向上という点でも競争を繰り広げており、一部では遠隔医療プラットフォームとの連携や、診断から処方、配送までのオンライン完結型サービスの構築も進められている。
地下鉄やジムでこっそりと、しかし確実に消費者の意識を変えようとする製薬各社の戦略は、規制と需要の狭間で生まれた中国独自のマーケティング進化の形と言えるかもしれない。声高に製品を叫ぶのではなく、社会全体の健康意識を変えることで市場を拡大する。このアプローチが、2030年に向けて中国の肥満人口がさらに増加する中で、どのような市場勝敗を生むのか。競争の行方は、単なる医薬品ビジネスの枠を超え、中国のヘルスケア産業全体の未来図を占う試金石となるだろう。